土下座は実際、儀式魔法🙇🏻

最近、ドゲザに関する記事をよく見るのは気のせいでしょうか?

元旦の格付けチェックでの土下座の記事やナイツの2人組がロケで土下座したという記事も……

news.yahoo.co.jp

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皆さんは土下座したことあるでしょうか? 機会があったらやってみたいと思うのはちょっと変ですかね。

そもそも、地面に膝をついて頭を下げるというポーズがどうして他人に許しを請うときに使われるのでしょうか。

Wikipediaの記事を見てみました。記事の内容云々の前に、ものすごくわかりやすい土下座の画像が掲載されていて笑いました。再現VTRみたい。

Dogeza 2015-01-15.png

さて、そんな土下座の初出はどうやら『魏志倭人伝』だそうな。今から1500年以上前から日本人は土下座していたみたいです。やったね。

www.aozora.gr.jp

大注目の原文は↑。「見大人所敬、但搏手以當跪拜」という部分です。「偉い人を見ると、跪いて拍手して敬った」みたいな感じでしょうか。

現在の土下座とはちょっと違いますね。床に手をつくタイプの土下座では拍手はできないです。

また、"偉い人に敬意を示すため"というのも今の土下座とは異なります。謝罪ではなく、敬意の表現として土下座はあったみたいです。「この紋所が目に入らぬか!」って言われて「ははー」ってなるやつですね。

そんな尊敬の土下座がどうして謝罪の土下座になってしまったのか……? これについてはよくわかりませんが、俺の仮説を紹介しましょう。相手のことを神様だと見立てて敬いのしぐさをすることにより、許しを請うことを強調してるのではないでしょうか。「あんたは神様なんだからここは一つ大目に見てよ、ね? ね?」って感じです。もし、そうだとすればこれほど神様をバカにした態度はありません。赦されることを前提で謝罪するなんて! まさに不遜です。

動物的な意味でいえば、腰を丸めて体を小さくする土下座という行為は、威嚇と逆の行為だと言えます。敵に出会った猫が毛を逆立てて体を大きくしたり、フグが水を体内に取り入れて体を膨張させたりする威嚇は体を大きくして、自分を強く見せる行為です。対する「土下座」は自分が縮こまることによって、目の前にいる相手を大きく見せることができます。相対的に相手が大きく見える状態を作ることによって「あなたは偉大です」という敬意を伝える顕示的行為なのです。

さて、そんな土下座に関して調べていくうちに、ある本で面白い記述があるのを見つけました。

極論が許されるなら、欧米は釈明の文化、日本は謝罪の文化といえましょう。

パリオ・マッツァリーノ氏が日本の謝罪文化と土下座について語ったエッセイの冒頭で述べられている一分です。

マッツァリーノ氏によると、欧米では他人から糾弾されたときに、自分に非がないことを明らかにする「釈明」をするそうですが、日本だとそのような"説明"よりもとにかく謝って誠意を見せる「謝罪」が重視されるといいます。

「言い訳をするな!」というのは学校の先生が口にする理不尽ワードの代表選手です。状況の説明がないと誰に責任があるのか明らかにならないのに、なぜか彼らは生徒の話を聞くことよりも優先して「ごめんなさい」を要求します。「話は謝ってから聞こう」って有罪判決下してから審理を開始するようなものじゃありませんか?

日本だけがそうではない、とは思いますがとかく世の中では中身そのものよりも様式美が追求されることが往々にしてあります。土下座というのはその象徴的なものでしょう。何か被害が出て、明らかに相手に非があるならば賠償金の請求が最も確実に相手にダメージを与えられて自分が得する方法ですが、土下座にしろ謝罪会見にしろ、「示談」が好まれます。

なんて不合理なんだ! と愚痴ろうとしましたが、よくよく考えてみると土下座も悪くないのかな、と思いました。だって、相手からお金や貴重品を奪ったりしてしまったら後で角が立ってしまう可能性が高いし。

だから、「とりあえずビール」ならぬ、「とりあえず土下座」で許そうという精神は結果的には平和的な社会を実現していたりするのかもしれません。

地に頭をつけて「誠にごめんなさい」を詠唱するだけで相手が心変わりする。それは、もはや儀式魔法です。

あなたも素敵な魔法使いになってみませんか? 🙇🏻