素直であることと正直であること

なんか説教始まりそうなタイトルですが、一回目の転職=初めての社会人経験に一区切りついたこの節目に、自分の中で大切にしていきたいと思う価値観について語っていきたいと思います。

ほとんど忘備録的な意味合いですね。

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人って嘘をつく生き物です。上の記事のよると、人間は男性であれば1日に平均して6回、女性であれば平均して3回嘘をつくらしいです。三歳児でも嘘をつくというのですから、嘘=真実と異なることを自覚的に言うことはある意味人間に固有の能力なのかもしれませんね。

『ウソから始まる恋と仕事の成功術』という映画は誰もが嘘をつけない社会に私たちと同様に嘘をつく人間が現れたらどうなるか、という面白い設定の映画です。事実と異なることが言えることに気が付いた主人公は機械の故障というウソをでっちあげて、お金をだまし取ることに成功します。

何のために人は嘘をつくのでしょう。多くの場合、真実を言うと自分の状況が不利になったり、あるいは真実と異なることを言うことで自分を有利な状態に置くことができるから嘘をつきます。罪を犯した人間が罰を逃れるために自分はやっていないと主張したり、男性が女性に対して見栄を張るために自分の年収をごまかしたりするのは代表的な嘘だといえます。要するに自分の利益のために人は嘘をつくのです。

状況によっては異なることもあるでしょうが、大抵嘘をついた側=だました側が利益を得られれば、嘘をつかれた側=だまされた側は利益を失います。「俺はやってない」と犯人が主張することによって、犯人を捜している人は新たに容疑者を見つけるという無駄な労力を費やされますし、年収をごまかされればいざ結婚となった時に自分が思い描いていた結婚生活とは異なる生活を余儀なくされます。

ゆえに、嘘をつくことはよくないことだ、というのが建前としては一般的な社会通念となっています。子供のころ、「嘘はいけない」と言われた経験はないでしょうか。俺も多分言われたことがあります。自分のために人をだますのはよくないことだというのは明らかです。

……なのですが、嘘って巷に溢れていますよね。社会人になってみて驚いたのは、社会にあふれる嘘の多さです。数字のごまかしや過少あるいは超過申告。嘘を前提で成り立っているようなビジネスなどなど……なんというか本来あってはならないはずの「嘘」が事実上の市民権を得始めているような気がするのは俺だけでしょうか。

子供のころは一つ嘘をつくだけでも、一日中悩んでしまうほど罪悪感を抱えていたのに、大人になってしまうと嘘をつくのが日常になっていて、相手をだますことに抵抗を感じなくなってしまう。慣れというのは恐ろしいものです。滑りやすい坂の議論と言われてしまいそうですが、「噓つきはどろぼうのはじまり」という諺は言いえて妙だと思います。一回嘘をつくことが次第にほかの悪事に手を染めることへの抵抗を奪っていって最終的には人のものを盗むようになる。社会に出る前は極端な諺だとばかり思っていましたが、そうではなかったですね。この諺には先人の知恵が詰まっているように聞こえます。

社会に嘘があふれている、という言い方をすると、あたかも俺は全く嘘をつかない聖人であるかのような印象を与えますが、当然俺も嘘をつきます。というより人より嘘を多くついてきたんじゃないでしょうか。人間関係を構築するのが苦手なので、その場を何とかやりきろうと嘘で乗り切ることが多かったように思います。とりあえず、嘘ついて他人と対立するのだけは避けよう、と。

そんな嘘をついてきた自分の大義名分は、「俺は他人のために嘘をついている」でした。いわゆる「優しい嘘」というやつですね。悪意がないことは確かだったと思います。今振り返ってみると、完全に保身のための嘘なのですが、当時は「嘘をついてあげている」とさえ思っていたように思います。

結局、嘘をつく自分は他人のことを信用していなかったのだと思います。ずっと自分の世界に生きていた俺みたいな人間にとっては、自分の価値観がほぼすべてなわけです。だけど、他人と接するということは他人の価値観を受け入れなければいけないという側面を大いに含んでいます。しかし、ただ他人と関わってしまうと、守るべき自分の価値観が侵食されてしまいます。自分の世界を破壊されたくなかった俺は嘘という手段を使って、嘘の世界の自分とそうではない本当の自分を切り分けるという手段を取りました。嘘の世界の自分を他人と交わせることによって、本当の自分を守っていたのです。その根底には他人に対する不信感があったに違いありません。

体操隊形に開けって小学生の時にありましたよね。お互いに両手を広げて、ぶつからない位置に広がるみたいな。自分がやっていたこともほぼそれと同じです。何とかして衝突しない距離に他人を置いて、ここから先には入ってくるなとテリトリーを決める。

それが悪いことなの? と少し前の自分なら言ったと思いますが、それはやっぱり悪いことだと思うのです。

自分など理解されるはずがないと勝手に思い込むのは心の奥底では相手に対する見下しがあるのでしょう。本来であれば理解してもらう努力が必要なのに、「理解なんかしてくれない」と思うことでその努力を放棄することができます。その思考に陥った時点で、相手に歩み寄ることよりも相手を拒絶することを重視してしまうことになります。

そもそも、頑張って他人から守っている本当の自分というものはそれほど大切なものなのでしょうか。ずっと心の奥にしまっているものって、開けてみると大したことのないものなのでは。家族からもらった高級なお土産を冷蔵庫の中にずっと入れていたら腐ってたみたいな。心の中にし待ってるものって、ある意味どうでもいいものなのかもしれませんね。

嘘の本質というのは隠すことなのではないでしょうか。情報を自分だけから見えるようにして、相手から見えないようにするという行為が嘘なのではないでしょうか。ブラックミラーを設置するようなものですね。ある一方からは見えるが他方からは何も見えない、もしくは違うものが見えるという状態を作り出してしまう。

世の中にはこんなブラックミラーが多くあるのではないでしょうか。言ってはいけないことややってはいけないとされていることが多すぎて、真実を隠さなければいけないことが往々にしてある。そして、社会の仕組みがそうなっているからこそ、個人としての在り方も社会の仕組みに合わせて、ブラックミラーとなってしまう。

もう眠いので早々にまとめに入ってしまいます。そんな構造から抜け出す唯一の手段が、素直であることと正直であることなのではないでしょうか。

怒った時に怒った顔をして、面白いことがあった時に笑うことができる状態。きっとそれは誰もが望んでいる自然な状態だと思うのですが、それはなかなか実現しない。権力構造だとか同調圧力だとか、いろんな要因がささやかれますが、その根底にあるものは結局「嘘」なのでしょう。

みんなが右を向いているときに、一人だけ左を向けるほど勇敢ではないですが、俺は自分の気持ちに正直でありたいと思いますし、他人に対して素直でありたいと思います。2021年も残り少ないですが、当分の目標として、正直であることを心掛けたいと思います。具体的には嘘をつきそうになったら、「それは嘘じゃないか?」と自分に問いかけて、事実を伝えることを実践してみることです。

真実は嘘に勝ります。長期的にみれば、嘘は状況を悪化させるだけで、自分に不利益をもたらします。本当のことを言うというのが他人に対する誠意の証だと俺は思います。