『認知バイアス事典』の紹介その③

どうもshigoroxです。

先日に引き続き、『認知バイアス事典』の内容紹介をやっていきたいと思います。

チェリーピッキング

都合の良い部分だけ見せて、それ以外の情報を意図的に隠すことをチェリーピッキングというらしいです。英語では「cherry picking」で、おいしそうなサクランボを選別して、収穫することから転じて「つまみ食い」的な意味を持つようになったとか。

投資詐欺なんかはこのチェリーピックの宝庫なのではないでしょうか。リターンの大きい投資には当然リスクが伴うわけですが、そのリスクの部分を隠蔽することによって、あたかも手軽に大金が手に入るように見せたり、うまくいった人の話ばかりを紹介することによってあたかも失敗した人がいないかのように語ったり……まぁ、例を挙げればキリがないですね。

ただし、本当に気を付けなければいけないのは自分自身が無意識で行ってしまう「つまみ食い」ですよね。今はもうネット社会ですから、わからないことがあれば「人に聞く」よりも検索エンジンで調査する人が多いと思いますが、自分で行う調査というのはえてして自分に都合のいい情報のみを受け入れてしまいがちです。

例えば、自分の好きな映画がどのくらい人気なのかについて調べようとしている人がいるとしましょう。誰もが同じくらい傑作だと述べる映画というのはほとんどないでしょうから、好意的な意見を述べている人もいれば駄作だと酷評する人もいるのが自然でしょう。中立的な態度で調べれば、「~~という点において優れているが~~という欠点も指摘されている」というような結論に至ることが最もあり得そうな結論です。

しかし、「好きだ」という気持ちが無意識的にその映画に対する否定的な意見を取るに足らないものとして排除してしまうと、調査の結果として集まるのは好意的な意見ばかりになるはずです。

そんな自分の嗜好性のフィルターでろ過された”事実”たちを見て、本人は「やっぱりみんなもこれが好きだったんだ」と満足げに調査の結果を披露します。本人は偏った事実をもとに自分の仮説に確信を覚え、自分と同じ意見ばかりを信じ込むようになる……

SNSを代表とするネットコミュニティの「同じ人が集まれる」ようなシステムがこのような傾向を加速させているような気がするのは自分だけでしょうか。

同族のるつぼにハマらないためにも、自分とは全く違う意見を持つ人と関わることも重要ですね。できれば、自分から会いに行くのではなく、ハプニング的にかかわることで価値観を広げられるようになります。

ギャンブラーの誤謬

5回連続で赤が出ていれば次は黒が出るだろう、とか、サイコロの1が出たらさすがにもう次は1がでないだろうのようなもの確率を個別の事象ではなく全体としてとらえてしまうような傾向を「ギャンブラーの誤謬」というようです。

カイジの限定ジャンケンとかEカードとかでこんな思考の傾向腐るほど見てきました。

ギャンブルにハマっている人も「サイコロの偶数の目が出たら次は奇数の目が出やすくなる」なんて理論はおかしいことぐらい冷静な状態であればわかっているのでしょうが、感情的になると間違った思考のプロセスをたどってしまうようになるのでしょう。

なぜそう思うようにできているんでしょう。人間の進化の過程でそうなったのでしょうか。みんなが同じ方向に行き過ぎるといけないという無意識で働くバランス理論みたいなのが俺たちには備わっている……とかかな。

対人論法

相手の意見に反論できなかったら、相手そのものを攻撃しよう、という手法です。「でも、俺がお前殴ったら、お前たぶん死ぬよ?」みたいなノリです。

姦通罪で石打の刑に処されようとしている女性に対してどう思うかと聞かれたイエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がこの女に、まず石を投げなさい」と答える聖書の一説がありますが、これも立派な対人論法です。

石打ちの刑が妥当かどうかと石を投げる人間が潔白かどうかは全く関係ないことですからね。もうちょい論理的に説教をするんだったな、イエス! ちなみにこの話の続きの「イエスだけが石を投げ続けた」とするジョークがあります。確かにイエスの口ぶりだと罪がない人間であれば石を投げてもよいかのように聞こえますもんね。

別にイエスが嫌いというわけではないですが、対人論法において道徳的優位性を主張するのはある種お決まりのパターンとなっています。「俺のほうが真面目に働いているのに」とか「でも、あいつはあんな悪いことしたやつだからな」とか道徳を盾にすれば相手の展開している論理に触れずに道徳的勝利を勝ち取ることが可能です。

なぜこのような「俺のほうが偉い」もしくは「あいつは卑しい」論法が広く普及しているのでしょう。おそらく、議論がどんな流れになろうと使える汎用性の高さと相手の人格の検証というメタ議論に持ち込むことによって難しいお題から逃れることができるという防御力の高さがその原因なのではないかと思われます。

ネットでは自分の人格を晒さないで相手のことを責めることができるので、「イエスの石打ち」を再現することが容易に可能です。匿名の人間は聖人になれますからね。

「困ったら 道徳マウント 俺イエス」対人論法ばかりやってると磔にされちゃいますよ。