『認知バイアス事典』の紹介その②

どうもshigoroxです。

このシリーズ、俺の中では第2回で早くもエタりそうな予感がしています。どんだけ飽きっぽいんだ、俺

循環論法

 

何かを証明したいとき、結論となる部分を前提として用いるようなことを循環論法といいます。

ものすごく単純な循環論法は「この部屋は閉ざされている」「なぜなら密室だからだ」というような言葉遊びのような形になりますが、様々な前提を用いて、A=Aであることを回りくどくいうことで、議論が循環していることをそれとなく隠すことができます。

前に紹介した多義の誤謬によるものに近いかもしれません。

滑りやすい坂論法

もともとは道徳や倫理の議論でつかわれていたものらしいです。何かに手を出したことがきっかけで、どんどんその傾向がエスカレートしていく……というありがちな現象を逆手にとった論証の方法だそうです。

例えば、「車に乗ると、交通事故に巻き込まれる可能性が高くなる。交通事故が起きると賠償金を支払わなくてはいけなかったり、怪我をしたりすることがある。怪我をよく折ったり、賠償金を払っていると生活が成り立たなくなる。ゆえに車には乗るべきではない」……みたいな感じでしょうか。

初めの一歩がだんだんエスカレートしていく、という過程をもとに、最初の前提からは到底想像できないような極端な結論を導き出すことによって、前提となっていた行為の正当性を貶める、という寸法です。

何となく受け入れやすい議論ですし、自分もついついしがちな論法かもしれません。

この論法の穴となっているのは、前提とそこから導き出される途中経過の間に必然的なつながりがないことだそうです。上の例でいうと、車に乗ると交通事故に巻き込まれることがあるのは受け入れやすい前提だと思いますが、そこから「必ず交通事故が起きる」という極端な仮定に基づいて賠償金や怪我の話になるのがおかしな点です。

車に乗っていても交通事故に巻き込まれずに普通に生活している人は多いですし、むしろそちらの方々のほうが多いわけですから、↑の論証は極端なわけです。

早まった一般化

自分的には早まった一般化というより過度な一般化といったほうがしっくりきます。少数の例に基づいて、その少数を含む大きなグループすべてに少数の特徴を当てはめてしまうことです。

例えば、ある会社に勤めている人3人に遅刻癖があったとしましょう。遅刻癖のある人3人しか知らない人にとっては、その会社に勤務している人全員が遅刻しているように見えるかもしれません。なので、「あの会社は時間を守らない人ばかりだ」というかもしれません。

しかし、遅刻しているのは100人中たったの3人だけかもしれません。その場合、「時間を守らない人ばかりだ」という結論は成り立たないことになってしまいます。

全体の中で、ある特徴を持った人がどれくらいいるのか、ということを知らないためにこのような誤りに陥ってしまいます。自分の知っている小さな世界に閉じこもらないことが重要ですね。

今日はここまで。せめて3日坊主ぐらいは目指して見せます。

『認知バイアス事典』なるものを買って読んでみようと思う イントロ

どうもshigoroxです。

Amazonプライムデーの一環でKindle本が安くなっていたので、何か買わなくては、と思い『認知バイアス事典』を買ってみました。

定価1980円のところ、770円で購入。定価の38%の値段で買えました。お得!

『IT全史』なるものも面白そうだったけど、普段から本をあまり読まない自分が一気に二冊買うと、2冊目に買った本が積ん読になる可能性が非常に高くなってしまうので、我慢しました。

Winnyの開発者である金子勇さんの弁護を行った弁護士が描いた本も安くなっていました。こちらは70%以上のオフ。俺はすでに定価で買っているので、購入はしませんでしたが、どちゃくそ面白い本でした。

ともかく、話を『認知バイアス事典』に戻しましょう。最近はやりの「大全」ものです。『独学大全』とか『ストレスフリー大全』とか本屋でよく見かけますよね。これもこの系譜なんでしょう。

この本のよさげなところは、俺たちが陥りがちな論理的、心理的な誤りを系統だてて解説してくれているっぽいところです。

本の内容は大まかに3つに分けられるらしく、論理的な誤りについて解説した第一章。認知科学的な知見から陥りがちな誤謬について述べた第二章。そして、社会心理学的にはまりやすい考え方について紹介する第三章。人の判断の誤りについて、多角的な要素から迫っている本だといえます。

って言ってもまだ初めの部分しか読んでないんだけどね。毎日書いていると各ネタもなくなってくるし、しばらくはこの本の中身のようやくでも行おうかなと思い立った今日この頃。

1日3章ぐらいまとめれば、20日で終わる計算になるから飽きっぽい自分の性格的にも続けられそうなちょうどいい塩梅なのではないでしょうか。

というわけで今日は1章から3章まで行ってみましょう!

二分法の誤謬

生きるべきか死ぬべきか……な論理的な誤りです。多くの選択肢があるのにも関わらず、いつの間にか2択で考えさせられるように方向づけられてしまって、極端な結論に到達してしまう間違いです。

本の中では「買うと幸せになれる壺」が例に挙げられていました。壺を売りたがる人間は、「買ったら幸せ」「買わないと不幸」という二択を強いて来るのですが、これは壺を買わせるために意図的に選択肢を狭めているといえます。「壺を買わなかったが幸せになる」「壺を買っても不幸になる」という場合の考慮が抜けているからです。

ちょっと日常的な話題に置き換えてみると、転職するかしないかの判断も二分法の誤謬に陥りがちなトピックだといえますよね。「転職したほうがいいのか?」という問いかけをよく聞きますが、転職して後悔する人もいれば、同じ会社に居続けて力を発揮できないままの人もいるわけであり、転職自体には特に意味はないんですよね。転職というのは手段でしかないのですから、重要なのは転職で何を達成するか/会社に残ることで何をしたいか、ですよね。今より大きい会社に行けば楽になれるという考えも、この会社でうまくやれなければ人生終わりだという考えも、心理的に追い詰められていく中でハマりがちな二分法の誤謬の典型例だと思います。

この誤謬から抜け出すためには、「場合分け」を適切に行うこと。要素が複数あればその階乗分だけパターンがあるということを忘れないことが重要だと述べられています。

先に挙げた壺の例だと、「壺を買う」と「幸せになる」という二つの因果関係がテーマになっているのですから、2の2乗分のパターンがあるわけです

  1. 壺を買う => 幸せになる
  2. 壺を買う => 不幸になる
  3. 壺を買わない => 幸せになる
  4. 壺を買わない => 不幸になる

いろいろなパターンを想定してみることで視野狭窄に陥ることを防ぐことができます。

 

ソリテス・パラドックス

何気なく2つ目に登場した「砂山のパラドックス」ですが、読んで「うーん」と唸ってしまいました。

砂山から砂一粒を取り除いても砂山のまま。ならば、最後の一粒になるまで砂を取り除いてもそれは砂山と呼べるはずだ。

という屁理屈がもとになっているみたいです。俺たちの感覚からすると、砂一粒は明らかに砂山と呼ばないのに、「砂一粒を取り除いても砂山は砂山」という前提を付け加えられると、「あれ? 砂一粒でもあり得るのかな?」なんて妙に納得してしまいそうになります。

本を読むのを少し止めて、何がおかしいのかな……と考えてみました。本の構成的に最初に答えらしきものが描かれているのですが、やはり少し考えました。

「砂山」という連続的な概念に対して「砂」というミクロな視点を取り入れてしまったがために起こるのではないでしょうか。

例えば、「梅雨」というのは春から夏にかけての間に見られる雨の多い期間のことです。ただ、日本に「梅雨」の時期があるのを知らない人からしてみれば、それぞれの日にちの雨は個別の雨であり、「梅雨」という特定の気象現象には思えないわけです。「昨日も雨だったし、今日も雨だったし、明日も雨だ」と認識されるだけで、昨日の雨と今日の雨につながりが見いだせないのです。

砂山に関しても同様で、たまたま同一個所に積み上げられた砂の集合体を「砂山」と呼んでいるわけですが、顕微鏡で覗いた視点では砂山も「砂」にしか見えませんし、宇宙から砂山を見てみれば、ただの砂とほぼ見分けがつかないかもしれません。

俺たちは、個別の事象に何か関連性を見出して、その関連性に対して概念を当てはめることがあるのだと思いますが、そのような概念に対して、個別の事象からアプローチを仕掛けている、ということがこのパラドックスが起きる原因なのではないでしょうか。ものすごくくだけていえば、適切な距離で見ればきれいに見える印象派の絵を、ものすごく近くで見て「これは絵じゃない!」って言ってるみたいな事じゃないでしょうか。全体として成り立っているものに名前が付けられていることがあるんだよってこと。

本に書いてある回答としては「砂山」という定義があいまいなのが原因だそう。どこからどの範囲を砂山と呼ぶのかの定義がないために、このパラドックスは起こりえるのだとか。

言われてみると、単に共通認識の問題なのかもしれないです。砂山の定義を明確にすることで、このパラドックスは解消されるとのこと。

多義の誤謬

本の中で述べられていたアリスの例はちょっとわかりにくかったです。

鏡の国のアリス』の中で「給料として、週に2ペンスと1日おきのジャムを渡す」という条件の下でアリスは白の女王の着付け係になるらしいのですが、白の女王は1日おきという言葉を逆手にとってアリスにジャムを渡そうとしません。

「1日おきのジャムですよ。今日は今日、おきの日とは言えませんからね」

"It's jam every other day; to-day isn't any other day, you know."

今日以外の日は"other day"なのですが、ジャムの支払いを行うのは"other day"です。ゆえに、今日がジャムの支払いを行う日だというときはやってきません。

 ここまで書いてみて少し理解できました。太字のotherの対象となる日が異なっているためにこれは間違っているのでしょう。

最初の"other"はジャムを支払った日を基準にotherと言っているのですが、後者のotherは今日を基準としてotherと言っています。

多義の誤謬とは複数の意味を持つ言葉を意図的に混同することによっておこる論理的な誤りだとのことです。

言葉遊びといえば、言葉遊びなのですが、危うくはまってしまいそうになりました……

今日はここまで。明日のネタもできたし、安泰です!

大企業の人事部には礼拝所でも設置されているのか?

どうもshigoroxです。

現在、絶賛転職活動中なのですが、ついに”あれ”が来てしまいました。

選考結果のご連絡

メールの件名で、自分が不採用だったことがわかります。なぜ、こんな思わせぶりなメールのタイトルにするのかわかりません。「残念ながら不採用となりました」じゃだめなんですか?

文言的にはこのタイトルでも通っている可能性はありうるので、一応中身を開いて内容を確認せざるを得ません。

お送りいただきました応募データにもとづきましてご検討させていただきましたが、大変残念ながら、今回は貴殿のご希望に添いかねる結果となりました。 

 ……わかってはいましたが、見ると辛いですね。

「大変残念ながら」と書かれているので、人事の人は俺を猛プッシュしたが、経営陣が断固として要求を拒否したとかいうドラマがあったのかな? はい、そんなわけないですね。書類選考で落とされたということは、履歴書の経歴の欄を見て、「はい、ダメ!」といった程度の選考しかされていないはずです。

そして、採用人事の必殺技が繰り出されます。

〇〇様の今後のご活躍を心よりお祈りしております。

 いわゆる”お祈り”というやつです。祈られてしまった……!

不採用のメールってなんでこうも回りくどく書かれているのでしょうか。メールのタイトルが「不採用となりました」で、本文は「ごめん」でいいじゃないですか。

最後のお祈りの文言なんて確実に嘘じゃないですか。応募の履歴書が来た人間全員の活躍を本当にお祈りしているのだとしたら、人事部に礼拝所が必要ですよ。不採用の決定を下すたびに採用担当者は胸に手を当てて、「ああ……この人に幸あれ……!」と願いながら静かに涙を流しているのでしょうか。じゃあ、採用してよ。

もちろん、ビジネスマナーであることは重々承知ですし、不採用通知の文言のテンプレートですから対した意味はないことも理解できます。

ただ、受け取ってみる側からしてみると理不尽に思えます。「あなたの会社で活躍したいです」って言っているのに、「あなたの活躍を願っています」で受け答えするのはどうかと……。日本文化を理解していない外国の人からしてみたら、「あれ、これってワンチャンスあるんじゃね?」と誤解してしまうのではないでしょうか。

そんなことを思ったので英語での不採用通知がどうなっているのか少し調べてみると、海外の不採用通知のテンプレを掲載しているサイトを発見。

Candidate rejection email template

欧米圏の不採用通知の最後にはこんな一文が……

We wish you all the best in your job search and future professional endeavors.

欧米の場合は、お祈りじゃなくて、お願いだった!

意味としては「あなたが仕事探しに全力を尽くして、将来の活躍を願っています」ぐらいのニュアンスでしょうか。

なんだ……日本とほぼおんなじではないですか。ちょっとがっかりです。

海外のビジネスメールは日本よりもフランクな感じなのかなと思っていましたが、別にそういうわけでもないみたいですね。勉強になりました。

太陽になりてぇ

 明るい人間になりたいです。明るい人間になって、周囲を照らしたいです。そう、太陽のように。

どうもshirogoxです。最近、自分の陰気な性格に辟易してきました。性格って洋服みたいに着替えられないものでしょうか。

具体的にはいつもニコニコしているような人になりたいですね。街を歩いていると、「こいつ、刑務所から出てきたのか?」ってぐらい朗らかな表情を浮かべている人っていますよね。そんな人物になりたい、と思ったらあなたはどうしますか。

はい。わからないので、調べてみました。

tabi-labo.com

まずは第一弾。いつも笑顔の人が心掛けている13のことらしいです。

「感謝」や「お礼」といった言葉が目立ちます。「ありがてぇ……」という気持ちが人をポジティブにさせるのでしょうか。

確かに、俺は「ありがとう」という言葉より「申し訳ない」とか「ごめんなさい」という言葉を使いがちですね。もちろん、申し訳ない、という言葉には自分なりの感謝を込めていたつもりなのですが、受け取る相手にとっては少し窮屈な印象を与えてくれるかもしれないです。陽キャって謝り方は簡潔ですからね。「わりっ」とか「ごめん」とか。逆にありがたりかたは尋常ではないです。「うわああああ、ありがとーーー」とか「やべっ、マジ感謝」とか。相手に好印象を与えるにはうざいぐらいがちょうどよいのかもしれないです。

文字ベースの情報だと若干スピリチュアルよりな情報が多くよさげなものが見つからなかったのでYoutubeでも探してみます。

総理大臣の孫じゃないほうのDaigoさんの動画です。

www.youtube.com

なんでも、「自虐ネタを言う」ことや「恥ずかしい記憶」を思い出すことで見栄やプライドを抑えられ、大胆な行動を行うことができるようです。アメリカのノースウェスタン大学の研究結果によるそう。

というわけで、俺の恥ずかしい話をここで少々。会社に入社した当初の話。大学時代に友達などいなかった俺は飲み会に参加したことがありませんでした。新入社員歓迎会で、挨拶を求められ、名前と「よろしくお願いします」だけという陰キャの極みのような最小限の自己アピールをした俺は、何を思ったのか、グラスを掲げて「乾杯!」と叫んでしまったのです。当時の俺は、乾杯の音頭は偉い人がとるものだということを全く理解しておらず、それどころか声を出すのは下っ端の役目だろうという謎の義務感を持っていたのでぺーぺーにも関わらず「乾杯」をやってしまったのです。

周りからはそう突っ込みを食らったのですが、10秒ぐらいの間自分がなんで突っ込まれているのか全く理解できませんでした。今思い返してみると、恥ずかしいお話です。

と、まぁ、こんな話をすれば、陽キャへの階段を登れるのでしょうか。恥を積み重ねることで明るくなれるというのは確かに一理あるといえます。街中で全裸で歩いている人間が根暗だとは考えにくいですからね。

うーん、どうやったら明るくなれるんだろう。早く太陽になりてぇ

働きたくないのに働かなきゃいけないって憲法違反では?

どうもshigoroxです。

タイトルの通りです。ふと思い立ちました。働きたくないのに働かなきゃいけないのは憲法基本的人権の尊重に違反しているのでは? 健康で文化的な最低限度の生活って文言あるよな。あれの通りになってないのでは? って

というわけで、働きたくないのに働かなきゃいけないのは違憲なのか? ちょっと調べてみました。

憲法の条文、どん!

elaws.e-gov.go.jp

国民の生活については、憲法の第三章に記されています。

第三章に属する十一条に以下の記載があります。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 いわゆる基本的人権の尊重というやつですね。毎日満員電車に乗らされて死んだ顔して揺られている人々は基本的人権が尊重されている状態なのでしょうか。そうは思えません。

ちなみに基本的人権とは何でしょうか

www2.nhk.or.jp

↑の中学生向けのテキストによると、平等権、自由権社会権参政権らしいです。

強制労働は自由権に違反してそうなので、労働によって成り立っている社会が違憲状態であることの根拠になりそうです。

もっと決定的な文言があるはずだ……と思って読み進めていくと……第十八条

 

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 こ……これは! "奴隷的拘束"とはまさに会社に拘束されて、一日の大半の時間をそこで過ごさなければならないことを指すのでは……?  やはり俺の置かれた状況は違憲状態でありましたか。

納得、納得。これにて閉廷。としたいところでしたが、第二十七条に衝撃的な文言が登場します。

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

勤労の権利、まではわかります。働きたい人間は働けばいいのです。しかし、その次。「義務を負う」とは何でしょう・勤労の義務??

権利を有し、かつ義務を負うってかなり変な文言じゃないですか? 「あなたはこれをしてもいいし、これをしなければならない」って矛盾してますよね。

 そもそも、学生や老人は働いていないわけで、労働の義務が国民の要件として入っているのはおかしいような気がするのは俺だけでしょうか。納税の義務と教育の義務に関しては、まぁ理解できます。特に納税ですね。お金がなきゃ国の運営は不可能なのですから、税金という形でみんなの役に立つ事業を行う。大いに結構です。

ただし、労働の義務ってなんでしょう。宝くじ当たっても働かなきゃいけないのでしょうか。不労所得得ている人々は憲法違反なのでしょうか。

誰しもに等しく認められるべきのは労働の権利のみでしょう。働きたくない人が働かなければいけない状態は身体的拘束を受けているとみなせるので、第十一条及び第十八条で規定されている自由権に違反しています。よって、日本国憲法第二十七条は違憲であると結論づけることができます。

政治家の誰かに、「二十七条を改憲すべきだ!」って主張してくれてる方いないですかね。

俺にとっては最も邪魔な文言なんですけど……

細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』はなぜ失敗したのか?(公開まであと1ヶ月時点)

 

どうもshigoroxです。皆さん、もう細田守監督の『竜とそばかすの姫』はご覧になりましたか?

見てないって? そりゃそうだ。だって公開日は2021年7月16日で現在日は2021年6月15日だもん。公開までちょうど一か月あるのだから関係者以外誰も見てないと思います。俺だって見てないよ。

国内なら言わずとしれたアニメーション映画監督、細田守監督が威信をかけて挑んだ超大作『竜とそばかすの姫』! この映画は今から一か月後に公開されたのち、興行的に失敗して終わってしまいます。

まぁ、まずは予告編でも見てみましょう。

www.youtube.com

ん? なんで見てもないのにそんなことを偉そうに言うんだって? それは、見てしまったからですよ。ある文言を……

f:id:shigorox:20210615225850p:plain

主演:中村佳穂さんを筆頭にそうそうたるメンツがずらりと並び……

f:id:shigorox:20210615230154p:plain

監督はわれらが細田守! やったね! そして、脚本を務めるのはなんと……細田守! うわああああああ\(^o^)/

俺は細田守監督の才能を固く信じている人間ですし、彼の演出家としての才能は世界レベルだと思っています。

しかしながら、物語を書く才能に関しては残念ながら「ない」と思っています。『未来のミライ』を見たときに俺はその確信を得ました。「あっ、この映画は監督が描きたいシーンをばらばらに映しているだけだ」と。

だって、『未来のミライ』を思い出してくださいよ。くんちゃんがミライちゃんにくすぐられるシーンは覚えてます。福山雅治と一緒にバイクに乗るシーンは覚えてます。いいシーンはいっぱいあります。さぁ、どんな物語でしたか?

……はい、時間切れです。誰も答えられませんでした。俺も答えられません。未来からミライちゃんがくんちゃんのところにやってきて……いろいろあった。そんな曖昧な答えしか返すことができないのではないでしょうか。

実際のところ、何を言いたいのかもさっぱりわかりませんでした。キャンパスにぶちまけられた絵の具を見せつけられて「なんか、これ、よくない?」と迫られている気分でした。部分部分はいいところが多いだけに、もったいないです。

「おいおい、過去の作品が良くなかったからって、新作がそうだとは限らないだろ?」。ごもっともな意見です。ここで新作のあらすじを見てみましょう。

自然豊かな高知の村に住む17歳の女子高校生・すずは、幼い頃に母を事故で亡くし、父と二人暮らし。
母と一緒に歌うことが何よりも大好きだったすずは、その死をきっかけに歌うことができなくなっていた。

曲を作ることだけが生きる糧となっていたある日、親友に誘われ、全世界で50億人以上が集うインターネット上の仮想世界<U(ユー)>に参加することに。<U>では、「As(アズ)」と呼ばれる自分の分身を作り、まったく別の人生を生きることができる。歌えないはずのすずだったが、「ベル」と名付けたAsとしては自然と歌うことができた。ベルの歌は瞬く間に話題となり、歌姫として世界中の人気者になっていく。

数億のAsが集うベルの大規模コンサートの日。突如、轟音とともにベルの前に現れたのは、「竜」と呼ばれる謎の存在だった。乱暴で傲慢な竜によりコンサートは無茶苦茶に。そんな竜が抱える大きな傷の秘密を知りたいと近づくベル。一方、竜もまた、ベルの優しい歌声に少しずつ心を開いていく。

やがて世界中で巻き起こる、竜の正体探しアンベイル。

<U>の秩序を乱すものとして、正義を名乗るAsたちは竜を執拗に追いかけ始める。<U>と現実世界の双方で誹謗中傷があふれ、竜を二つの世界から排除しようという動きが加速する中、ベルは竜を探し出しその心を救いたいと願うが――。

現実世界の片隅に生きるすずの声は、たった一人の「誰か」に届くのか。
二つの世界がひとつになる時、奇跡が生まれる。

 

要するに「田舎の女子高生が仮想世界で歌姫として無双していました。大きなコンサートを開催したけど、竜にじゃまされました。でも竜がいじめられてかわいそうだったから、介抱してあげました。そんなお話」
ううーん、これは……不採用! <U>という文字が長い鼻の顔文字に見えてしまうぐらい、つまらなそうです。

なぜつまらなそうなのかというと、「田舎」「仮想世界」「歌姫」「竜」といった要素すべてがばらばらに見えて統一感なさそうだからです。どう見ても自然に結びつく気がしない。あっちに行ったりこっちに行ったりな感じになるんじゃないかと。

そして、細田監督がこのとっちらかったトピックをうまく物語としてまとめられるかというと……×。華やかなシーンが作りやすい設定なので、確かに面白いシーンはいっぱいありそうな気がしますが、「……で、結局何だったの?」って感じになるのは目に見えてます。

『僕らのウォーゲーム』や『サマーウォーズ』に似ているのも観客の期待値と上映される作品との溝を生みそうで嫌なところです。だって、その2つは文句なしに面白かったし。だから、PV見てみると、確かに面白そうなんです。「こんな展開があるんじゃないか?」「あの作品とおんなじ興奮があじわえるのでは!?」……でも、賢い俺はもうだまされません。"映画の予告編の出来"と"映画本編の出来”に相関は一切ありません。マクドナルドのメニュー表の写真と実際に提供される商品が異なるのと同じ理屈です。

「歌」というわかりやすい見せ場が用意されているっぽいので、そこは素直に期待です。細田監督の作るMVとかすごくクオリティ高そう。

ところで、『デジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲーム』で不特定多数の存在がヒーローを強くする仲間として描かれていたのが、この映画では「誹謗中傷」で竜を傷つける悪役として描かれているところに時代を感じます。

インターネットがアングラに近い時代は、不特定多数の連帯や結束が社会に光明をもたらすのではないかと謎の期待感があったわけですが、今はその真逆。減滅期というやつでしょうか。『シュガーラッシュ2』でも唐突な誹謗中傷批判みたいなのありましたし、神山監督の『ひるね姫』でもそんなような描写ありましたね。この記事含め、有名なクリエイターさんは、有象無象の批判家きどりどもにボロカス言われることが多いので、その現実を反映した形なのかもしれませんが。

ここまでべらべらと偉そうに話してきましたが、俺、まだ見ていないんですけどね。見てから語れ! はいその通りです。ただし、俺の予想だと、これはたぶん面白くならないだろうなぁ……と思いました。以上

スタジオ地図へ:細田監督の次の作品では脚本家とタッグ組ませるか、原作ものをやらせるようにしてください。お願いします。

働けど働けどなお、わがくらし楽にならざりけり。じっと手を見る。

っていった石川啄木は26歳で死んじゃったんですって。わお、今の俺とためじゃん。

どうもshigoroxです。

教科書に載ってたこの詩。自分は好きです。昔から仕事って辛かったんだなぁって不毛な気持ちになります。

……なりますが、よくよく考えてみたら啄木って詩人ですよね。詩人が「働けど働けど」ってなんかおかしくないですか。汗水たらすようなイメージの職業じゃないです。

Ishikawa Takuboku.jpg

うーん、きれいなお顔。こいつは農民じゃねぇ!

調べてみると、お寺の息子さんみたいです。

さて、そんな啄木の残した歌ですが、大人になった啄木が歌の通りにひもじい生活を送っていたのかというと、半分あたりで半分外れみたいです。

啄木は岩手県の生まれで、盛岡中学(おそらく現在の教育課程だと中~高校に当たる)を退学して歌人の道を選びます。

退学の引き金となったのはテストのカンニング。隣の優等生にテストの回答見せてと頼んで見せてもらおうとしたら、それがばれてしまったそうです。

それが原因となって中学にまで通えていた啄木のエリート人生は崩壊。といっても魔が差してカンニングをしたのではなく、常習犯だったみたいで、ついでに素行も悪く、授業には欠席しがちだったといいます。現代でいう真面目系クズですね。いや、真面目要素ないか。

学び舎を追い出された啄木はめげずに上京。働き口を見つけようと頑張るも、生まれつき病弱だったのが祟ってダウン。心配された父により故郷に強制送還されます。

その後、お父さんが住職の免許をはく奪されて石川一家は路頭に迷うことになります。

なるほど、啄木はこれをきっかけに更生の道を歩むのか、と思いきや彼は全く変わりません。

幸運にも渋民尋常小学校の代用教員の職を得た彼は『渋民日記』という手記の中で「余は日本一の代用教員である」と豪語します。問題の部分はこちら

余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。
 余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいふ通りになつて来たことである。教授上に於ては、先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ。

現代文に翻訳してあげると以下の通りです。

「俺は最強の(代理)教師だ! やったぜ。お前らうらやましいだろ。そのうえ、俺は歌も歌えるんだぜ? やっぱ教育者は詩でも作れねぇとな! ガキどもはみんな俺のいいなりさ。悪ガキだって俺の手にかかれば思いのままだ。俺が編み出した道徳さんすうこくごの教え方は最強だぜ。ほんと文科省の指導要領はクソだな!」

自画自賛の後に、小学生にマウントを取りはじめ、最後に文部省の指導要領に文句を垂れ流す代用教員。小物っぽさのロイヤルストレートフラッシュですね。

takubokudiary.higoyomi.com

 

『渋民日記』の随所には啄木の高慢で、不遜な記述が随所に見られます。また、自身の健康状態に関する記述も多く、卑屈な感じもします。

日本一の代用教員の啄木はなぜか正規の教員になることができないまま職を離れ、北海道に行きます。新聞記者や東京での校正の仕事を転々としながら、貧しい日々を過ごします。

……このように書くと、貧しくてかわいそうな感じもしますが、こいつの仕事はほぼ1年も続いていません。しかも、総じて勤務態度が悪い。働けど……とか言ってますが、啄木に関していえば、働かないためにお金がたまらないのに手を見て「?」マークを浮かべている馬鹿です。

調べれば調べるほど、彼の人間性について疑問が生じてきます。

極めつけは、彼の残したこの歌。彼は友人知人から借金をして生活を乗り切っているときが多く、しかも借りたお金を女遊びに使うというどうしようもない人間なのですが、プライドの高さゆえか他人にへつらうことは嫌いのようで

「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」

「意訳:ぶっちゃけ、一度でも俺に頭を下げさせた連中に対しては死ねと祈ったことがあるんだよなぁ」

結局こいつは26という若さでで死にました。もし、病気が治っていたとしても長生きすることはなかったと思われます。